パリ・オリンピックでは10000m走にも注目!
アメリカ・カリフォルニア州に在住し、同州の高校でクロスカントリー走部のヘッドコーチを務める角谷剛氏による連載コラム。第6回目の今回は、いよいよ始まったパリ・オリンピックでの、個人的注目選手について。マラソンだけでなく10000mも楽しみです。
いよいよ始まったパリ・オリンピック。ランナーの皆さんなら、きっとマラソンは何があっても見逃せないでしょう。あるいは、世界最速を決める100m走にも注目しているかもしれませんね。
陸上競技に関しては、世間一般の主な関心はこのふたつのイベントに集中しがちです。長い距離を走ると苦しいことは誰にも分かりますし、短距離のかけっこなら子どもの頃にやったことがあるので、観ていて感情移入がしやすいからかもしれません。もちろん、陸上競技経験者なら話は別になるでしょうが。
きわめて個人的な理由ながら、私は男子10000m走決勝が行われる8月2日をもっとも心待ちにしています。400mトラックをぐるぐると25周走る、想像するだけでも過酷な競技です。マラソン同様に予選がなく、いきなり全代表選手による決勝レースが行われます。男子の日本代表は太田智樹選手と葛西潤選手の2人。女子の日本代表は五島莉乃選手、小海遥選手、高島由香選手の3人。日本人として、彼らの幸運を心から祈ります。
しかしながら、私は今回に限っては、米国代表のあるランナーを応援すると決めています。彼の名前はニコ・ヤング(Nico Young)。北アリゾナ大学4年生で、オリンピック期間中の7月27日に22歳になったばかりの若いランナーです。
高校クロスカントリー走のスーパースターからオリンピックへ
私はヤング選手ととても薄い縁があるのです。もちろん、私が一方的に彼を知っているだけで、彼は私のことなどはまったく知りません。
と言うのは、ヤング選手と私の息子は同学年で、高校時代に同地区でクロスカントリー走のレースを何度も走っていたのです。息子のレースを応援に行くと、必ずトップをぶっちぎりで独走していたのがヤング選手でした。
気候が温暖で雨が少ないカリフォルニア州は、高校クロスカントリー走のレベルが全米でもっとも高い州のひとつです。そして、そのカリフォルニア州の中でも、ヤング選手と息子が走っていた南地区(ロサンゼルスとサンディエゴを除く南カリフォルニア一帯)は、10ある地区のなかでも最強でした。州大会の1~5位までをすべて南地区の高校が独占することも珍しくなかったのです。つまり、この南地区を制覇することは、カリフォルニア州を制覇することと等しく、あるいは全米を制覇することを意味していたかもしれません。少なくとも4年前まではそうでした。
ヤング選手はその南地区で圧倒的な存在でした。2位以下になったレースを私は見た記憶がありません。スタートしてすぐにトップに立ち、どんどん後続ランナーを引き離していくレース展開をいくども繰り返していました。
クロスカントリー走ではタイムはあまり重要とされません。チームのスコアは順位で決まります。2位以下に大差をつけても、あるいは僅差で競り勝っても、優勝ランナーに与えられるスコアは同じ1点です。そのためか、ヤング選手は余裕を持ってゴールすることが多くありました。人から聞いた話ですが、州大会決勝レースでは、その頃流行っていたフォートナイト・ダンスを踊りながらゴールしたと言うエピソードまであります。
にもかかわらず、ヤング選手は3マイル(約4.8km)レースの全米高校記録(13分39秒)を持っています。高校クロスカントリー走のほとんどはこの距離で行われます。
普通の高校なら、3マイルを16分台で走れば、学校代表選手になれるレベルです。15分台ならエース級ランナーです。14分台となると、どんなレースでも優勝を争うには十分です。ヤング選手の出した13分39秒というタイムはそれほどまでに驚異的だったのです。
ちなみに、そのレースは息子の高校が主催した大会でした。そして私は、保護者ボランティアの一人としてコース作りに関わっていました。3マイルという距離を測定するために、GPSウォッチを着けてコースの試走をしたのは私です。
未来の米国オリンピック代表選手を目撃したのかもしれない。最終レースでトップを独走するヤング選手を見た私たちはそう思いました。その予感がまさに現実のものになったわけです。
超人たちが競うオリンピック
残念ながらと言うべきか、驚くべきと言うべきか、そんなヤング選手でも、少なくとも今回のオリンピックではメダル候補というわけではありません。6月の米国代表決定予選ではギリギリの3位通過でした。
ヤング選手の10000m持ちタイムは、今年3月に出した26:52.72。オリンピック標準記録の27:00を辛うじてクリアしています。ウガンダのジョシュア・チェプテゲイ選手が保持する世界記録の26:11.00には遠く及びません。
伝統的に、5000mとか10000mの長距離トラック走ではエチオピア、ケニア、ウガンダなどのアフリカ勢が表彰台を独占しています。2016年のリオデジャネイロ・オリンピックにおいて、5000mと10000mの両方で金メダルを獲得した英国のモハメド・ファラー選手のような例外的な選手もいますが、この人も実はソマリアの出身です。白人のヤング選手にとっては、かなり厳しい戦いになるでしょう。
高校時代のヤング選手を知る身としては信じがたいのですが、世界にはあれより速いランナーがたくさんいるようなのです。オリンピック選手がいかに超越的な存在であるかをあらためて認識しました。陸上競技だけではなく、他のスポーツでも事情は同じなのでしょう。
ヤング選手に限らず、米国の長距離走選手はほぼ例外なく高校時代にクロスカントリー走を経験しています。秋にクロスカントリー走部で野外を走り、春は陸上競技部でトラック走に取り組むわけです。たとえレベルが天と地ほど違っていても、息子や教え子たちと同じような高校生活を送ったランナーたちが世界でどう戦うのか。今から楽しみです。