断酒は長距離ランナーを速くするか?

アメリカ・カリフォルニア州に在住し、同州の高校でクロスカントリー走部のヘッドコーチを務める角谷剛氏による連載コラム。今回は、ランナーとお酒について。マラソン大会後に飲むビールはもちろん、普段走った後の一杯を楽しみにしているというランナーも多いのではないでしょうか。もしかしたら、その一杯がなければタイムが早くなるかもしれない、そんなお酒とパフォーマンスの関係性についてのお話です。
10月12日に開催されたシカゴ・マラソンで、アメリカのコナー・マンツ選手が4位に入賞し、それだけではなく、23年振りにアメリカ記録を更新しました。マンツ選手の記録は2時間04分43秒。日本記録は、2021年に鈴木健吾選手が記録した2時間04分56秒ですので、それを僅かながらも上回る快記録です。
これより少し前に閉幕した東京2025世界陸上でも、中・長距離走でアメリカ人選手の活躍が目立ちました。男子5000mでアメリカ代表のコール・ホッカー選手が金メダルを獲得し、優勝タイムは12分58秒30。同種目では、以前このコラムで紹介したニコ・ヤング選手も、ホッカー選手から僅か1.77秒遅れの6位入賞を果たしています。
マンツ選手は28歳、ホッカー選手は24歳、ヤング選手は23歳。3人とも白人です。ホッカー選手は2024年パリ・オリンピックの1500m金メダリストですし、ヤング選手は、世界陸上の3か月前にノルウェー・オスロ―でダイヤモンド・リーグに初出場し、いきなり5000mのアメリカ記録を更新して優勝しました。
アメリカの陸上競技といえば、伝統的に短距離系種目の黒人スター選手が目立っていた印象が強いのですが、ここ近年は、中・長距離走の分野でも若いアメリカ人選手たちが世界の舞台で存在感を増しつつあります。
こうした傾向の原因として、ランニングシューズの性能やトレーニング理論が飛躍的に進化していることを背景に求める説が一般的です。ところが、経済誌「ウォールストリートジャーナル」(以下、WSJ)のオンライン版が、一風変わった解析記事を掲載しました。タイトルを私なりに直訳すると以下になります。
「アメリカ人ランナーはかつてないほど速くなった。それはお酒を飲むことをやめたからか?」
興味をそそられる仮説だとは思いませんか?
「走った後はビールで乾杯!」の文化はなくなるか?
アメリカでマラソンなどの長距離走レースに参加申し込みをすると、よくゼッケンと一緒に「ビール・チケット」がついてきます。ゴールした後にそのチケットをブースに持っていくと、ビールと交換してくれる、というものです。日本にもあるのでしょうか。
それはともかく、美味しいビールを飲むために走るんだ、と力説するランナーは日本でもアメリカでも多いですよね。私もこれまでに数えきれないほどのレースを走ってきましたが、もっとも励まされた応援メッセージは「Pain Now, Beer Later」というものでした。今はこんなに苦しいけれど、頑張って走り続けたら、ゴールにはビールが待っているよ。というわけです。どうです、素晴らしいでしょう?

私は素晴らしいと思いました。それ以来、苦しいときにはこの4語を心の中で繰り返し唱えるようにしています。村上春樹さんが走るときのマントラは「Pain is inevitable. Suffering is optional.」なのだそうですが、浅学菲才な私にはこの文章はやや抽象的かつ精神的に過ぎます。
それよりはビールを鼻先にぶら下げられると即物的に元気が出るタイプです。けっして安易に仲間を求めるわけではありませんが、ゴール付近のビール交換ブースは、いつも私のようなランナーたちで混雑しているという事実はお伝えしておきます。

あるレースのビール交換ブース。長蛇の列ができる。
むろん、上は市民ランナーの話なのですが、WSJの記事によると、かつてのアメリカでは、高いレベルの競技ランナーたちの間にも、走った後はビールやワインをがぶ飲みする「パーティー文化」があったらしいのです。
日本もきっとそうですよね。大学の体育会とか選手寮とかでは、いかにもたくさんお酒を飲んでいそうです。伝説のマラソンランナー瀬古利彦さんは、「走る修行僧」とまで呼ばれたストイックなキャラクターで知られていましたが、実は現役時代からビールが大好物だったという話を聞いたことがあります。
現在の日本人ランナーたちがお酒とどのようにつきあっているかは分かりませんが、WSJの記事が正しければ、アメリカ人中・長距離ランナーの多くが、今では断酒かそれに近い生活を普段から送っているそうなのです。そして、そのことが競技パフォーマンス向上の主原因ではなくても、少なくともプラスの方向に働いているのではないか、という仮説が述べられています。
アルコールという悪影響因子を排除する。
アルコール摂取が、健康や運動能力に悪影響を与えること自体に異を唱える人はもはやいないでしょう。さまざまな研究によって証明済みの事実です。
学術論文データベースで「運動とアルコール」をキーワードにして研究を検索してみれば分かります。少量のアルコールでも耐久力を低下させる(*1)、乳酸値が上昇しやすくなる(*2)、運動後の回復を遅らせる(*3)、睡眠の質を低下させる(*4)などなど、これでもかというばかりに論文がヒットします。
アルコールが悪影響因子に他ならないならば、それを排除する。つまり断酒をすればランナーのパフォーマンスは上がるはずだ。この論理には一部の隙もないように思えてきます。
瀬古さんは勝負をかけたロサンゼルス・オリンピックの前だけは、1年半くらい禁酒をしたそうです。残念ながら、その我慢は実を結ばず、念願のメダルも入賞も逃したことは周知の通り。
やっぱりお酒を止めたのはよくなかった、ストレスが溜まってしまった、とアルコール擁護派の人たちは言うかもしれません。だけど、瀬古さんがもっと長い間禁酒をしていたら、そもそもお酒を飲む習慣がなかったら、もっとすごいランナーになっていたかもしれない。そんな想像だって可能です。
社会的な背景と未来への展望。
お酒の量と頻度を控える「節酒」、一定期間お酒を飲まない「禁酒」、あるいは金輪際お酒を一切飲まないと誓う「断酒」。アプローチはさまざまですが、以前に飲酒の習慣があった人がお酒から離れようとすれば、程度の差はあれ何かしらのストレスが生じます。
しかし、生まれてから一度もお酒を飲んだことがなければ、それをしないことによるストレスを感じることはありません。タバコを吸ったことがない人にニコチン依存症はありえないように。

ランナーに限らず、アメリカ社会ではそうした「無酒」の人が増えているようなのです。ギャラップ社の最新調査によると、2025年時点で「飲酒する」と回答したアメリカ人は成人全体の54% にすぎず、過去数十年間では最低水準だということです。とくに、若い世代の白人にお酒離れの傾向がもっとも顕著だということで、前述の3選手はまさにそのグループにあたります。
若く才能あるアスリートが、最新のテクノロジーと理論に基づいたトレーニングを積む。短期的にも長期的にもアルコールからの悪影響をまったく受けない。ひょっとしたら、若い世代のお酒離れ現象は、人類がかつて実現したことがないパフォーマンスを生むかもしれません。
アメリカほどではないにしても、日本でも若い世代を中心にお酒離れが進んでいると聞きます。少なくとも、世界を相手にするアスリートならば、お酒を飲まないことが当たり前になっていくのではないか。私はそう思います。
ちなみに、私はけっして若くはありませんし、競技ランナーでもありませんが、約2年前に始めた禁酒を今でも継続中です。それにもかかわらず、自己記録更新は未だに果たしていません。お酒を止めたら、こんなに速くなりましたよ、と実体験を基に報告できないのは誠に残念なのですが。

2021年、とあるレースのゴール後に飲んだ生涯最高のビール。
参考文献・研究
*1. Effect of a Small Dose of Alcohol on the Endurance Performance of Trained Cyclists.
https://www.researchgate.net/publication/23770769_Effect_of_a_Small_Dose_of_Alcohol_
on_the_Endurance_Performance_of_Trained_Cyclists
*2. Alcohol and its effects on sprint and middle distance running.
https://www.researchgate.net/publication/19430691_Alcohol_and_its_effects_on_sprint_
and_middle_distance_running
*3. Alcohol: impact on sports performance and recovery in male athletes
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24748461/
*4. Alcohol and sleep I: effects on normal sleep
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/23347102/