芸人・アメリカザリガニ柳原哲也の「大阪マラソン2018」完走への道。後編
笑顔のゴール
フィニッシュ前、大会MCから「アメリカザリガニの柳原さんです!!」と声をかけられ、両手を振って応える柳原哲也さん。レース中盤以降、初マラソンの洗礼を受けて苦しんだが、ラストは笑顔でゴールした。初挑戦となる大阪マラソンで見事完走し、自らに課したミッションを成功させたのである。
――ゴールした瞬間は笑顔でしたね。
「ほんまに安堵でしたね。昔オリンピックで有森裕子選手が『自分を褒めてあげたい』って言うてましたけど、あの気持ちめっちゃわかりました。それしか当てはまらへん(笑)。」
柳原さんは、笑顔でゴールした瞬間を振り返った。
やれるんちゃうかなという感覚
大阪マラソンを走る――。
そう決断してから本番前日まで柳原さんは「かなりストイックな日々」を過ごしてきた。
大会スポンサーの1社であるアメリカン・エキスプレスのサポートプログラムを受け、食のアドバイスに加え、園原健弘トレーナーとメールのやり取りをして指示を受け、10月に10キロ走、本番2週間前には20キロ走を実施した。
――本番までの減量、トレーニングは順調に進んだのでしょうか。
「食事のプログラムや園原トレーナーの指示のおかげで体重は82キロから76キロまで落ちました。芸人仲間からは『引き締まったね』って言われたし、今日、走って体の重さは感じられへんかったんけど、ほんまはもうちょっと落としたかったですね。」
――長い距離に対する不安は払拭することができましたか。
「最初の10キロ走の時は死ぬかなっていうぐらい走れんくて、正直フルマラソンは無理やなぁって思ったんです。でも、そこから走り込みをして20キロ走をした時、5キロを4周するんですけど、そのすべてのラップタイムが10キロ走を走った時より良かったんですよ。あんなにしんどかった10キロがこんなに楽勝になってるんやと思いましたし、タイムも10キロ走が1時間19分やったけど、20キロ走は2時間30分ほどで走れた。20キロ以上は未知の領域やけど、このまま園原トレーナーの言うこと聞いとったらやれるんちゃうかなって思うと不安は小っちゃなりました。」
目標タイムは6時間
決戦前夜、肉温玉舞茸天ぷらうどんの大盛を食べ、エネルギーを充電。風呂の中で2時間、マンガを読み、1時間ほど各箇所の制限時間とコース図を調べてメモ紙に書いた。睡眠時間は3時間程度だったが目覚めは良く、朝はエネルギーのゼリーを2つ食べた。新しいシューズには独自に作成してもらったインソールが入っており、パンツのうしろポケットには前夜書いたメモを入れ、万全の準備でスタートラインに向った。
――目標タイムは?
「ここは、はっきり6時間というときます。20キロまでがんばって貯金を作っていければええかなと。今までのサポートやアドバイスを思い出せばできないはずがないって思いますんで。」
午前9時27分、柳原さんがスタートした。
人生初のマラソンの挑戦が始まったのである。
完璧な20キロ、地獄の後半
柳原さんは、最初の5キロが38分07秒、それ以降も5キロを38分台のペースを維持し、順調に走った。
――20キロまでは、38分台ペースで非常に順調でした。
「ほんまに楽しく走れました。御堂筋とか千日前筋とか冬眠前のてんとう虫みたいに人がたくさん走っていたんで壮観でしたね。練習の時は歩道を走るんで段差とかあったけど、それも気にせんで走れるし、ちょっと周囲につられてハイペースかなって思ったけど、いけるやんっていう余裕がありました。」
しかし、20キロを越えると状況が暗転する。
20キロから25キロまでは50分05秒とペースが一気に落ち、25キロから30キロまでは50分41秒になった。
――20キロを越えてから未知の領域は苦しい走りになりました。
「20キロを越えるとジワジワと足にきましたね。25キロを越えると太腿の前がつりそうになるんで、ストレッチしようとすると今度はうしろがつりそうになるんです。前も後ろも『あかんあかん』って状態になって、そこからは地獄やった。しかも制限時間があるじゃないですか。足切りのプレッシャーがイヤでイヤで、ほんまに苦しかったです。」
――苦しい時は、何を考えて走っていましたか。
「いろんな人に支えられて走っているわけじゃないですか。これでリタイヤするわけにはいかへん。どんなことがあっても走らなあかんって、それだけでしたね。」
オリジナルの走行
足を酷使した柳原さんの太腿は力が入らなくなり、つりやすい状態になっていた。完全につってしまうと肉離れに近い状態になることもあり、最悪は走れなくなる可能性もある。完走のために柳原さんが考えたのは、信号と信号の間を走ると次の合間は歩く、それを交互に繰り返す走行戦術だった。信号がないと標識や歩道橋を目印にした。
――走る、歩くを交互に繰り返すことで足に何か変化が起きたのでしょうか。
「35キロぐらいから太腿がつる感じがなくなってきたんです。太腿との付き合い方がわかったようになって、それからまた長い距離が走れるようになりました。残り2キロを切ってゴール付近の歓声とか聞こえるとテンションが上がりましたし、ゴールが見えた時はほんまに嬉しかったぁ。マネージャーに『もうちょいやぞ。イケるぞ!』っていうと『はい!』っていうてゴール前まで来たんです。一緒にゴールするっていうてたんですけど、自分がMCの声に反応して手を振っている間にマネージャーが先にゴールしてました。なんやねん! って思いましたけどね(笑)。」
フルマラソンの成功体験
柳原さんのタイムは、6時間22分19秒。
スタート前の目標タイムには届かなかったが、25キロを超えた付近で柳原さんの足の様子を聞いたマネージャーがリタイヤを考えるまで深刻な状態に陥ったことを考えると、完走は大きな価値があり、非常に意味のあることだった。
――この成功体験は、今後の芸人人生につながりそうですか。
「もう50歳まで楽勝でがんばれますね。正直、プレッシャーがすごくありました。本来は自分がひとりでやらなあかんわけやけど、一流の人にサポートしてもらえるチャンスと走る用意をしてもらった。でも、それは『おまえ、やれよ』っていうプレッシャーじゃなく、自分が頑張ろうって思えるプレッシャーやったんです。最終的にやり遂げることができたんでプレッシャーに打ち勝つことができましたし、もう口だけじゃないことが証明できました。これからいい意味で余裕を持って仕事に取り組めるかなと。」
――42.195キロが何かを変えてくれそうですね。
「思ったのは、こういう挑戦も仕事も自分ひとりでできることじゃない。うしろから何本もの手で支えてもらっている。それを今回、改めてまざまざと感じさせられました。今後は人に対して優しくなるかもしれないですね、相方に対しても。突っ込み弱くなるかもしれん? あかんがな(笑)。丸くなることやなく、忘れがちな感謝をちゃんと思えるようになると思います。」
神輿の上
完走後、柳原さんが園原トレーナーにメールをすると「おめでとう」と喜んでくれたという。母からは「すごいな。走り切ったんや。やるなー。体、ガタガタとちゃう?」というメールが届いた。一緒に完走したマネージャーには約束通り完走賞(42,200円)を贈った。
柳原さんの完走で多くの人が喜びに包まれた。
――今回の挑戦で支えになったのは、どういうことでしょうか。
「正直、アメリカン・エキスプレスのサポートプログラムがなかったら絶対に無理でした。自分ひとりじゃ走れていない。園原トレーナー、マネージャーを含め、みんなのサポートのおかげやと思います。そういう意味では、僕はほぼ神輿の上でしたね(笑)。いろんな人に担がれていたなぁって思いますもん!」
――6時間を切るために、再挑戦の気持ちは。
「えっ?! 今の自分の脳は拒絶していますね。今回走れたんで、次も走れますけどね。」
苦笑する柳原さんの表情は、42.195キロを走り終えた達成感に満ちていた。
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