人は何歳まで走ることができるのか

“Mullingar Half Marathon 2023 – 3 Mile Mark” by Peter Mooney is marked with Public Domain Mark 1.0.
アメリカ・カリフォルニア州に在住し、同州の高校でクロスカントリー走部のヘッドコーチを務める角谷剛氏による連載コラム。今回は、人は何歳まで走り続けることができのか、を海外の事例を交えてご紹介します。年齢を重ねても自己ベスト更新を目指してしまうのはランナーの性ですが、海外にはとんでもない方たちがいるものです。
一般的に人間の身体的なピークは、20代後半から30代前半だというイメージがあります。プロスポーツ選手の多くはその辺りの年齢で引退しますよね。
しかし、市民マラソンの世界では話は少し異なってきます。本格的な競技選手ではない限り、20代以前でマラソンを走る方がむしろ例外的だからです。たいていの人は30代、40代くらいで初マラソンを経験し、そのなかから50代、60代、あるいはもっと上の年代になっても走り続ける、少し変わった人も出てきます。
さらに変わった人は、ただレースに出続けるだけではなく、できれば生涯ベストの記録も更新していきたいと思うようです。とは他人事のようですが、何を隠そう、私もそのひとりです。
私のこれまでのベストタイムは、52歳のときに出した3時間26分。1年に1分ずつ記録を更新し続ければ、78歳で3時間切りが見えてきます。と信じられるほどには楽天的にはできていませんが、心のどこかに、まだ以前より速く走れるのではないかというポジティブな思いが残っています。むろん、現実にはそれほどの時間と可能性はもう自分には残されていないだろうと、ネガティブに考えることもたまにはあります。今回は、そんな感情の揺れを共有するランナーの皆さんに、とびっきり元気が出る(かもしれない)話を紹介します。
70代でも進化し続ける驚異のランナー。
近年、英語圏のランニング関連メディアで頻繁に紹介されるひとりの女性がいます。その名はジェニー・ライス(Jeannie Rice)さん。1948年に韓国で生まれたアメリカ人女性、現在77歳です。
ジェニー・ライスさんを紹介した「Runner’s World」誌のインスタグラム:
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ライスさんは、1500m走からフルマラソンまで、さまざまな長距離走種目で年代別の世界記録をこれまでに何回も樹立してきました(ライスさんの公式サイトより)。
もっとも最近の快挙は、2025年8月31日に行われたシドニー・マラソンでした。ライスさんのタイムは3時間37分38秒。むろん、75-79歳女性部門でぶっちぎりの優勝です。なにしろ、同部門2位のランナーより1時間21分早くゴールしたのですから。同年代男性部門の優勝者ですら、そのタイムは4時間00分52秒。ライスさんの方が23分も速かったのです(シドニー・マラソン公式結果より)。
ライスさんは、これで世界7大メジャーマラソン(東京マラソン、ボストン・マラソン、ロンドン・マラソン、ベルリン・マラソン、シカゴ・マラソン、ニューヨーク・シティ・マラソン、そしてシドニー・マラソン)のすべてで年代別部門優勝を成し遂げたことになります。
ライスさんの活躍がたびたび報じられているうち、彼女の身体能力はいったいどうなっているのだろう、と興味を抱く研究者までもが現れました。米国の生理学系ジャーナル(Journal of Applied Physiology)上で2025年2月に発表された研究(*1)によると、彼女の最大酸素摂取量(VO₂Max)は47.9 mL·kg−1·min−1に達し、最大心拍数は1分間180拍以上を記録していました。
運動生理学に知識のある人なら、上ふたつの数値が70代女性としてはとんでもないものであることが分かるはずです。
VO₂Maxの数値は、現役アスリートでも50~60台くらいが大半だと言われています。彼女の数値はほぼそのレベルに近いですし、一般人に混じれば20代でも十分以上に健康的な心肺機能を備えていると評価できます。
最大心拍数の一般的な数値は、「年齢-220」で計算されます。つまり、彼女の数値は30代のものと同等と言えます。繰り返しますが、彼女の実年齢はその倍にあたる76歳(計測当時)なのです。
さらに驚かされるのは、彼女が走り始めたのは35歳のときだったという事実です。若い頃から陸上競技に取り組んでいたわけではなく、中年期に趣味として始めたランニングが、やがて世界的に注目される偉業へとつながったのです。
高齢ランナーはもはや珍しくない。

“Tokyo Marathon” by chsyang is marked with Public Domain Mark 1.0.
ライスさんの偉大さは形容する言葉すら見つかりませんが、かといって彼女が他に類を見ないほど唯一無比の例外的な存在なのかといえば、必ずしもそうではないと私は考えています。
彼女ほど特別に速くはなくても、「高齢になってもフルマラソンを走り続ける」のは、もはや珍しいことではなくなっているからです。そのことは市民マラソンを走ったことがある人なら先刻ご存知でしょう。日本でも海外でも、どのレースのスタートラインに立っても、周囲を見渡せば、もはや40代、50代は当たり前、60代や70代と思えるランナーの姿も少なくありません。
高齢ランナーが増えたことにより、多くのマラソン大会記録には70代以上の部門が当たり前のように設けられるようになりました。「年齢が高いから走れない」という固定観念は崩れ、「年齢を重ねても走れる」という新しい価値観が浸透してきています。
むろん、人は誰でもトシをとれば衰えます。加齢に伴って心肺能力や筋力が低下することは避けられません。しかし、トレーニングを継続することで、その低下を最小限に抑えられることも分かっています。そして、マラソンにもっとも必要な「低い強度の運動を長時間継続する」ための身体能力は、瞬発力や最大筋力などと比べて、比較的維持しやすいようなのです。
『runnet.jp』の記事では、「持久力のピークは47歳」というノルウェーの研究結果を紹介しています。それだけでも意外ですが、現実世界にはそれよりずっと高い年齢になっても自己最速記録を維持するか、あるいは更新するランナーがいることは紛れもない事実です。
背景には、運動生理学や医療の進歩に加え、社会的な意識の変化も大きいのではないでしょうか。かつては常識だった「年を取れば体力は衰える」「だから無理は禁物」という概念が薄れつつあります。より多くの高齢者が「年甲斐もなく」頑張って走るようになった結果、そのなかからライスさんのような自己最速のタイムに挑み続けるランナーも出現してきました。
世界中のマラソン大会に数多くの高齢ランナーが出場しています。2011年のロンドン・マラソンを100歳で完走したとされるインド出身の英国人ファウジャ・シンさんは、2025年7月に交通事故で亡くなるまで(114歳!)走り続けました(ロイター通信の記事より)
「人は何歳まで走ることができるのか」という問いは、私たちに新たな希望と可能性の地平を広げてくれているのではないでしょうか。

トレイルランレース『TransRockies Run』でゴールする筆者
参考文献・出典
*1. A case report of the female world record holder from 1,500 m to the marathon in the 75+ age category.
https://journals.physiology.org/doi/full/10.1152/japplphysiol.00974.2024